principle of charity

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

世間における論争というものを見ていると、そうやって揚げ足のとりあいをするのが論争というものだと思っているかのような人も多い。しかし、お互いに相手の議論を不合理に再構成しあっていては、およそ有意義なコミュニケーションはできない。極端なことをいえば、そういう論争はお互い疲れるだけで何も得られないことになり、時間の無駄である。(-----) 論争は(少なくともその一部は)お互いの言っていることを理解する協力的な作業だと思うこと、これもクリティカルシンキングをするうえで重要な心構えである。そうした協力的作業において役立つのが思いやりの原理(principle of charity−出典書ではこの原語はもっと前に出てきています)である。これは相手の議論を組み立てなおす場合には、できるだけ筋の通ったかたちに組み立てなおすべきだ、という原理である。もうちょっと具体的には、相手は基本的な思い違いをしているとか基本的な推論規則を誤用しているという解釈と、そうした思い違いや誤用がないという解釈の両方が可能な場合には、なるべく誤解をしていないという解釈をするべきだ、ということになる(48-50頁)。

 同書の著者の伊勢田哲治先生の最近の日記は、このprinciple of charityの見事な実践例と解説になっているという印象を持ちました。確率論的思考には(苦手ですが)私もまったくなじんでいないわけではないのに、このような読み方に全く思い至らなかったのを恥ずかしく思います。 ただ、自己正当化が混じっているかもしれませんが、principle of charityの難しさも改めて考えました。
 元の文章は、伊勢田先生も指摘しておられるように、principle of charityに従って解釈しても、また今度は別の種類の誤謬をおかしていることになり、やっぱりおよそ理解困難なものです。とすると、「できるだけ筋の通ったかたち」といっても、必ずしもより「合理的」とは言い切れず、むしろ解釈者は、話者が「誤謬A」をおかしているのか「誤謬B」をおかしているのかを推論した上で判断することを迫られることになるでしょう。伊勢田先生は、話者の学問的専門領域を参照してその認知枠組を推定することによって、また、テクストを余すところなく解釈するという原理を採用することによって、適切な解釈にたどり着いていると思われますが、この作業の難しさは言うまでもないでしょう。
 また、(以下を考えるには元の文章は不適切な例と言わざるを得ませんが)私自身の今の関心に引きつければ、principle of charityは、熟議民主主義の基盤となるべきものではないかという印象を持っています。しかし、相手の議論をお互いにどこまで「合理的に再構成」し、どこからを最終的に多数決に委ねるのかの「境界線」は相当に難しいでしょう。レッテル張りした上で相手の議論を不合理に再構成しあうことが行われている現実の政治の場のありようは肯定できないにしても、不一致と抗争を残すことの必要性を強調する闘技民主主義論の問題提起は、やはり重要ではないかと思います。
 そして、principle of charityによって相手の主張を合理的に再構成することにはそれなりのコストが伴う以上、それを行うことを容易にするための「場の創出」や「スキルの援助」が必要になってくるのでしょう。
 さらに付け加えれば、正直なところ、私自身、元の文章を読んだときに、それを合理的に再構成しよう「意欲」自体が全くわかなかったのが事実です。おそらく、相手に対する何らかの意味での基本的な「信頼」がもてなければ、およそその主張を理解しようとする「意欲」がもてないのかもしれないのかもしれません。principle of charityは、他者を理解しようとする以上「われわれに強いられている」ものであることをディヴィドソンは強調するそうですが(下記森本書、53-54頁)、そもそも理解しようという意欲がわかないのではどうにもなりません。例えば市民参加等においても、まずは相互の信頼醸成が第一になるのではないかということを改めて考えた次第です。

デイヴィドソン ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

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