敗戦直後の行政裁判所存置論

必要があって、以前執筆した拙稿「「憲法『改正』動向をどう受け止めるか:行政法との関係―行政訴訟制度をめぐって」(法学セミナー612号(2005.12)33-38頁)の草稿を読み返していました。

草稿には、敗戦直後、行政裁判所が「わが国の当時の指導法曹によって見限られて」しまっていた(高柳信一「行政国家制から司法国家制へ」田中古稀『公法の理論下II』(有斐閣、1977)2193-2348頁(2212-2221頁))中で、ごく少数述べられた行政裁判所存置論に触れた部分があります。紙幅の関係で結局ほとんどカットし(p37注(14)で一言だけ触れています)、自分でも何を書いたかほとんど忘れていました。備忘録のため、少しだけ修正して、ここにあげておこうと思います。

他方、ごく少数ではあるが、行政裁判所存置論も見ておく必要がある。上記憲法問題調査委員会に提出された野村淳治顧問(1945年12月26日)(*1) 、遠藤源六行政裁判所長官(1946年2月15日) の意見書(*2)において、このような立場が表明されている。両意見書とも、(1)行政裁判所のこれまでの運用に問題があったことは多かれ少なかれ認めつつ、それは行政国家制の枠内で改善可能だとする(2)三権分立・公法私法区分論に立脚して行政裁判所の理論的正当化を試みる(3)行政権の特別の保護の必要性を強調することに共通性を有している。
 これに加え、まず遠藤意見書は、行政裁判所の職権主義的運用の有意義性を強調する。行政裁判は「行政庁ノ違法処分ヲ匡正シ法規ノ維持」と「人民ノ権益擁護」の二つの目的を有し、そのために職権主義が認められているのだから、一方では「出来得ル限リ事実ノ真相ヲ究明シ公正無私ノ態度ヲ以テ法令ノ解釈適用」が必要であり、他方では、「当事者ニ対シ叮寧懇切ヲ旨トシ手続上ノコトハ法令ノ規定ニ拘泥スルコトナク支障ナキ限リハ当事者殊ニ経験ニ乏シキ原告ノ為ニ便宜ヲ図リ成ルベク実質上ノ問題ニツキ裁判スルコト」が、「大正以来ノ伝統的方針」(*3) だったというのである。
 高柳は、一般的に、行政裁判所行政訴訟に携わった長官・評定官達が、職権主義的審理に裏付けられた強い「民権擁護の自負」を持っていたことを確認した上で、それは「論理必然的にか、偶然的にかはさておき......行政の優位の思想と結びつ」くものであり、「厳正な訴訟手続を経て客観的法規範を解釈適用することにより法的紛争を裁断し権利を救済する、という裁判の論理もあいまいなものにならざるをえなくなる」と批判する。「原告はただお上はけしからんといって出て来ればよい、あとは裁判所が職権で調べて救済してやる、という一見プロ人民的行政裁判観」では、行政裁判制度も発達しないし、国民の権利意識の形成に対しても阻碍的に働いたというのである(*4) 。但し、上記の遠藤意見書の引用部についてのみいえば、「法令ノ規定ニ拘泥スルコトナク」とされているのは、あくまで「手続上ノコト」についてであり、「実質上ノ問題」について「客観的法規範を解釈適用すること」が否定されているわけでは必ずしもないことには注目しなければなるまい。
 ついで野村意見書である。60000字にのぼる長文のこの意見書(*5) は、首相公選論、陪審制の復活実施、土地等の国有化、銀行業等の国営化、労働権・休養権・国家救護請求権・教育の自由等の規定の追加等、きわめて大胆な内容を含んだものであった。ソ連憲法の条文が数多く引用され、「産業の社会化、即ち経済の民主化」に関する限って言えば、「思ひ切ってこれを断行するに非ずんば、国家は最早立ち上ることを得ない」という観点から、社会主義的改革を説くものである。「松本(烝治)の”技術主義”に対抗して、広い視野に立って重量感のある『意見書』を対置しようとした意気込みがうかがえる」(*6) と高く評価されるこの意見書が、同時に行政裁判所存置論を説くのは、今日の目から見るとやや奇異の感すらある(*7) 。それはなぜだったのだろうか。
 野村は、アメリカの法曹一元制と日本の裁判官制度を比較し、次のように述べる。

「併し乍ら我国では総ての裁判所の裁判官は、原則として専任職の終身官たる判事の中より補任せらるることとなつてゐる、弁護士又は法科大学教授中より上級の裁判所の裁判官に補任せらるる者の如きは、どれだけもない。それは在職中は 俸給ある又は金銭の利益を目的とする一切の公務に就くことを禁ぜられて、一般社会から隔離されてゐる。かくの如き純然たる司法官僚の人を以て裁判をなさしむるときは、その裁判が司法官僚式となることは免かれ難い。これをして民事及刑事のみならず、行政事件をも併せて裁判せしむるとも、それに因つて行政裁判が民主主義に依つて行はるるに至るの望は更に存しない。」

 そして、「官僚裁判官」への不信を前提とする同意見書は、委員会の多数意見に従い司法裁判所が行政訴訟を審理するとすれば、「その司法裁判所内の行政裁判部を構成すべき裁判官を成るべく、高等行政官、司法官、官公私立大学法科教授及弁護士中より採用することとなし、同行政裁判部が十年または二十年一日の如くに同一の官僚裁判官のみに因つて構成せられて、化石するにいたることの幣を防(ぐ)」ことを提案する。
 あくまで仮説であるが、まさに同意見書の大胆な社会改革的内容ゆえにこそ、司法国家制の下で「司法官僚」によって改革が阻害されるおそれを警戒したのだとは考えられないだろうか(*8)。


(*1)日本国憲法制定資料全集(1)(1997、信山社)192-239頁(行政裁判所廃止関連部分は214-222頁。同意見書は、http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/051/051tx.htmlで参照可)
(*2) 日本立法資料全集72日本国憲法制定資料全集(2)(1998、信山社)259-274頁
(*3)(*1)262頁
(*4)高柳信一「行政国家制から司法国家制へ」田中古稀『公法の理論下II』(有斐閣、1977)2193-2348頁(2206-2209頁。)行政裁判所の非=裁判所的性格を強調するこのような見解に対し宮崎良夫「行政裁判所と評定官」(『行政争訟と行政法学』(弘文堂、1991)48-96頁)は、ドイツ・日本の行政裁判所の裁判官構成を検討し、そこでかなりの数の司法裁判官がその官職を占めていたことから、「戦前のわが国やプロイセン行政裁判所が、われわれの漠然とイメージする以上に裁判所的な性格を有する存在であった」(49頁))と疑問を呈する。
(*5)同意見書全般については、田中聖「『野村意見書』の存在意義をめぐって」小林還暦『現代国家と憲法の原理』(1983、有斐閣)293-319頁。
(*6)古関彰一『新憲法の誕生』(中公文庫、1995年)102頁
(*7)古関・前註の野村意見書の紹介において「行政裁判所を廃止する」という誤記が見られるのも、この意外性と関係するだろうか。
(*8) なお、野村意見書は、行政処分の違法確認だけではなく取消を命ずる事、新たなる行政処分を自らなし、あるいは行政庁になさしめることは、自由裁量事項も含まれる以上司法裁判所によっては不可能であり、それゆえに行政裁判所が必要とされるとも説いている。

市街化調整区域差止め訴訟:続報

以前のエントリで取り上げた茨城県鹿嶋市の市街化調整区域差止め訴訟の続報が出ているのに気づいていませんでした。

毎日新聞(茨城)2008.5.14

鹿嶋・大野地区の「線引き」問題:住民訴訟 県側争う姿勢 /茨城
 鹿嶋市大野地区(旧大野村)を市街化調整区域化し、開発促進地域と抑制地域に「線引き」する計画をめぐり、同地区の住民や土地所有者80人が県に都市計画区域区分指定処分差し止めを求めた住民訴訟の第1回口頭弁論が13日、水戸地裁(坂口公一裁判長)であり、県側は争う姿勢を示した。
 県側は答弁書で、市街化調整区域を決定する都市計画では区域内に住む住民個人に対する具体的な権利侵害があったとは言えず、差し止め訴訟の要件を満たさないとして、訴えの却下を求めた。「線引き」で地価が下落しするとの主張に対しても「根拠や具体的な金額が明らかでない」と反論した。

なお、上の記事では「住民訴訟」とありますが、おそらくは地方自治法242条の2の住民訴訟ではなく、抗告訴訟としての差止め訴訟ではないでしょうか。

科研費報告書

私が研究代表者として受領しておりました
科学研究費補助金(2005年度〜2007年度)基盤研究(C)
「情報処理システムとしての都市法に関する比較公法学的研究」(課題番号17601006)
の研究成果報告書ができあがりました。

紙冊子は最小限の部数しか作成しておりませんが、ご希望の方があれば、PDFファイルの形でよければ送らせていただきます(12.5MBありますので、ファイル転送サービス等を利用します)ので、メールで(お名前・ご所属等をお書き添え下さい)ご連絡下さい。

もっとも内容的には、研究期間中に公表したこのテーマに関する研究業績(「これまでの仕事」)をそのまま綴じたものが大部分で、特に新味があるわけではありません。恥ずかしながら、このところ各方面に抜刷をお送りすることすら怠って失礼を申し上げている状況ですので、このような形ででもお送りすることで、ご指導を頂く機会があればと存じます。

協議同意の廃止?

読売新聞2008.5.4

国の土地利用規制権限、都道府県に全面移譲へ
 政府の地方分権改革推進委員会(委員長・丹羽宇一郎伊藤忠商事会長)は、第1次勧告に、都市計画、農地、森林の土地利用規制に関する国の権限を都道府県に全面移譲し、国の関与を大幅に廃止、縮小する改革案を盛り込む方針を固めた。
 都市計画法、農業振興法に基づく国の同意を廃止するほか、森林法による重要流域の保安林の指定・解除の決定権を移譲する。
 都市計画分野では、〈1〉同計画区域の指定・変更〈2〉同計画区域の整備、開発、保全方針の決定〈3〉開発を行う市街化区域と開発を抑制する市街化調整区域の区分(線引き)決定――など4項目について、国土交通相が行う都道府県との協議、同意を廃止する。区域区分など2項目は、農相との協議も必要となっており、これも廃止する。そのうえで、都道府県の権限の一部を市町村へ移譲することも明記する考えだ。
 (略)
 分権委は、現行の国土交通(都市計画担当)、農林水産(農地、森林担当)両省による縦割り行政では、都道府県が都市計画や農政、林政を総合的に展開することができないと判断した。国の権限を移譲することで都道府県が責任をもって地域づくりをするように促す狙いがある。

 かなり大胆な改革の方向性のように見えます。

分権委の「中間的なとりまとめ」(2007年11月16日)では、

地方活性化のためには、地域の実情に通じた地方が、このような社会経済情勢の変化に対応したまちづくりを自らの責任と判断で進めていくことが重要であり、このような観点からも、都市計画制度について抜本的見直しを行うことが求められている。
 都市計画は、地域の実情に通じた市町村が連携しつつ自らの責任と判断で行うことが基本であるが、都道府県による広域の見地からの調整の必要性にも留意すべきである。このような観点から、三大都市圏等の都市計画に関する都道府県の国への協議・同意をはじめとする各種の国への協議・同意を廃止・縮小するとともに、都道府県から市町村への権限移譲等について検討すべきである。
 なお、都市計画の諸手続に時間が掛かり過ぎるとの指摘を踏まえ、手続の迅速化・効率化について検討すべきである。

と述べられていました。
  2006年都市計画法改正で都道府県の広域調整権限が重視されたこととあわせ考えると、一方で市町村への権限委譲も触れられているとはいえ、県の権限がますます強まりそうな印象です。 (i)協議同意の廃止(ii)「縦割り」と総合性(iii)市町村と都道府県の関係などが絡み、どのような制度設計になっていくのか注目されます。

(追記)http://d.hatena.ne.jp/nozomimatsui/20080505
で、骨太の方針との関係についての分析がなされているのに気づきました。勉強になりました。

動物裁判

ロイター:マケドニアの裁判所、はちみつ盗んだクマに有罪判決

スコピエ 13日 ロイター] マケドニア南部ビトラの裁判所は、養蜂家からはちみつを盗んだクマに有罪判決を下した。ただ、クマには所有者がおらず、保護動物にも指定されていることから、養蜂家に対しては国が14万デナール(約35万円)の損害賠償を支払うよう命じている。
 勝訴した養蜂家はドネブニク紙に対し「クマが怖がると聞いたので、撃退するために照明や音楽を使った。そのために発電機を買い、辺りを照らして音楽をかけた」と語った。
 ただ、その後の数週間は効果があったものの、発電機が使えなくなって音楽がやむと「クマは再びミツバチの巣箱を襲ってきた」という。
 クマの居場所などの情報は明らかになっていない。

かなり古い記事ですが、今頃気づきました。池上俊一氏の名著『動物裁判

動物裁判 (講談社現代新書)

動物裁判 (講談社現代新書)

を思い起こさせます。マケドニアの法制度についての知識が皆無なのですが(前任校時代なら気軽にお尋ねできたのでしょうが)、附帯私訴と犯罪被害者給付制度などが結びついているために、この種の擬制が用いられたということなのでしょうか。「所有者がおらず」というのは、賠償責任者の不存在、「保護動物にも指定」というのは、養蜂家の方での権利防衛の手段がない、ということかなと思いましたが、まったくのあてずっぽうです。
 もっともこの記事、「世界のこぼれ話」("oddly enough")に分類されていて、最後の締めの文章も「いかにも」です英語版だと"There was no information on the whereabouts of the bear")。ついでに「音楽」というのは、"songs of (Serbian 'turbo-folk' star) Ceca"だったことなんかも紹介されていたりします。あくまでユルい感じを意図した記事なのでしょうが、興味を持った次第です。

両院協議会

衆議院議員河野太郎氏のメルマガ(ブログ版)
に、在日米軍駐留経費負担特別協定をめぐる両院協議会のもようが生々しく描かれています。以前から両院協議会は何をする場なのだろうという素朴な疑問を持っていたので、興味深く読みました。
 上記ブログで、河野氏は、

こりゃ、だめだ。
ねじれ国会なんだから、この両院協議会で実質的な議論が行われ、大胆な妥協がなされ、国民のために成案を得るということがなければならない。
二十人の協議委員の半分が、口もきかないし、第一最初から両院の職員がこれをセレモニーにするために慣例通りの手順をせつめいしちまうなんて。
両院の議長は、もっとまじめにしっかり、この両院協議会を実質の議論の場にするためのリーダーシップをとらなければならない。
こんな馬鹿なことをやっていれば、政治不信はさらに深まる。

と書かれています。
 私が不勉強なだけかもしれませんが、いわゆるねじれ国会状況を受けた制度改革論議として、衆院の優越を高める案はしばしば報じられますが、議会各会派間の交渉による合意の可能性を高めるための制度改革案はあまり見られないように思います(制度外的な与野党の話し合いを求める主張は多く見られますが)。55年体制下の国対政治を思い起こさせて不人気なのでしょうか。両院協議会がそれに適した場かどうかは別として、議会レベルでの交渉の可能性を高める制度設計は、かならずしもねじれ国会対応に限らず、十分にあり得る一つの選択肢だと思うのですが。

上記ブログで触れられている両院協議会の議事録です。http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/019616920080425001.htm
(確かに1人だけ紙を読んでいないような....)

他に
内閣総理大臣指名
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/006516820070925001.htm
平成20年度予算
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/019316920080328001.htm
などもあります。

principle of charity

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

世間における論争というものを見ていると、そうやって揚げ足のとりあいをするのが論争というものだと思っているかのような人も多い。しかし、お互いに相手の議論を不合理に再構成しあっていては、およそ有意義なコミュニケーションはできない。極端なことをいえば、そういう論争はお互い疲れるだけで何も得られないことになり、時間の無駄である。(-----) 論争は(少なくともその一部は)お互いの言っていることを理解する協力的な作業だと思うこと、これもクリティカルシンキングをするうえで重要な心構えである。そうした協力的作業において役立つのが思いやりの原理(principle of charity−出典書ではこの原語はもっと前に出てきています)である。これは相手の議論を組み立てなおす場合には、できるだけ筋の通ったかたちに組み立てなおすべきだ、という原理である。もうちょっと具体的には、相手は基本的な思い違いをしているとか基本的な推論規則を誤用しているという解釈と、そうした思い違いや誤用がないという解釈の両方が可能な場合には、なるべく誤解をしていないという解釈をするべきだ、ということになる(48-50頁)。

 同書の著者の伊勢田哲治先生の最近の日記は、このprinciple of charityの見事な実践例と解説になっているという印象を持ちました。確率論的思考には(苦手ですが)私もまったくなじんでいないわけではないのに、このような読み方に全く思い至らなかったのを恥ずかしく思います。 ただ、自己正当化が混じっているかもしれませんが、principle of charityの難しさも改めて考えました。
 元の文章は、伊勢田先生も指摘しておられるように、principle of charityに従って解釈しても、また今度は別の種類の誤謬をおかしていることになり、やっぱりおよそ理解困難なものです。とすると、「できるだけ筋の通ったかたち」といっても、必ずしもより「合理的」とは言い切れず、むしろ解釈者は、話者が「誤謬A」をおかしているのか「誤謬B」をおかしているのかを推論した上で判断することを迫られることになるでしょう。伊勢田先生は、話者の学問的専門領域を参照してその認知枠組を推定することによって、また、テクストを余すところなく解釈するという原理を採用することによって、適切な解釈にたどり着いていると思われますが、この作業の難しさは言うまでもないでしょう。
 また、(以下を考えるには元の文章は不適切な例と言わざるを得ませんが)私自身の今の関心に引きつければ、principle of charityは、熟議民主主義の基盤となるべきものではないかという印象を持っています。しかし、相手の議論をお互いにどこまで「合理的に再構成」し、どこからを最終的に多数決に委ねるのかの「境界線」は相当に難しいでしょう。レッテル張りした上で相手の議論を不合理に再構成しあうことが行われている現実の政治の場のありようは肯定できないにしても、不一致と抗争を残すことの必要性を強調する闘技民主主義論の問題提起は、やはり重要ではないかと思います。
 そして、principle of charityによって相手の主張を合理的に再構成することにはそれなりのコストが伴う以上、それを行うことを容易にするための「場の創出」や「スキルの援助」が必要になってくるのでしょう。
 さらに付け加えれば、正直なところ、私自身、元の文章を読んだときに、それを合理的に再構成しよう「意欲」自体が全くわかなかったのが事実です。おそらく、相手に対する何らかの意味での基本的な「信頼」がもてなければ、およそその主張を理解しようとする「意欲」がもてないのかもしれないのかもしれません。principle of charityは、他者を理解しようとする以上「われわれに強いられている」ものであることをディヴィドソンは強調するそうですが(下記森本書、53-54頁)、そもそも理解しようという意欲がわかないのではどうにもなりません。例えば市民参加等においても、まずは相互の信頼醸成が第一になるのではないかということを改めて考えた次第です。

デイヴィドソン ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

デイヴィドソン ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス