市街化調整区域と宅地並み課税

西日本新聞ワードBOX(2008年4月26日)

市街化調整区域 

都市計画法に定める都市計画区域のうち、市街化が抑制される区域。区域内では、新たに住宅など建築物を建てることは原則できない。主に山林や農地などが中心で、無計画な開発や急激な人口の集中を防止するのが目的。

開発期待高まる旧高田町 市街化調整区域で住宅着工できず 「活性化へ設定解除を」

 ●みやま市、県と調整開始 問われる「まちづくり
 3月末に部分開通した地域高規格道・有明海沿岸道路の沿線に位置し、宅地開発の期待が高まるみやま市の旧高田町地域。しかし同町の一部地域は「市街化調整区域」に設定されているため、住宅の新規着工はできない。住民からは「このままでは地域の高齢化が進む一方で、若者が定住できない」との嘆きも漏れる。同地域の現状と、設定解除に向けた課題を追った。
 (大牟田支局・北島剛)

 ■商店少なく不便
 同町に市街化調整区域が設定されたのは1971年。都市計画法に基づき県が定めた大牟田市を含む大牟田都市計画に、同町約4100ヘクタールのうち約1900ヘクタールが入った。このうち約1700ヘクタールが同区域になった(その他は市街化区域)。
 市街化調整区域になって影響を受けた地域の1つが江浦小校区だ。校区内には西鉄江の浦駅があり、国道も通っているが、元高田町議の寺岡英一さん(75)=同市高田町江浦町=は「土地があっても家が建てられないので、子どもたちは町を出て行くしかなく、近所はお年寄り世帯ばかりになっていく」と嘆く。
 なぜ、区域設定当時に、将来を見越して反対の大きな声が上がらなかったのか。寺岡さんは「調整区域になれば、農地は非課税になるとのうわさが流れたからではないか」と推測する。実際には、固定資産税の非課税措置はない。
 区域設定による開発抑制は顕著で、現在も校区内に商店は少なく「車のない人は行商人から買い物するなど暮らしにくい」(寺岡さん)という。

 ■今が撤廃の好機
 昨年1月に旧高田町と旧瀬高、旧山川両町が合併して発足したみやま市には、瀬高都市計画と大牟田都市計画の2つが存在する。合併協定には「市街化調整区域の撤廃も含めた区域全体の見直しに取り組む」との文言が盛り込まれ、同市は設定解除に向けて県との調整を始めている。
 市街化調整区域を廃止した例として、熊本県荒尾市がある。同市は2004年、同県に申し入れて同区域の設定解除を受け、市として同法に基づく「特定用途制限地域」に指定した。同地域になったことで工場などの建設は制限されるが、住宅建設は可能になった。
 みやま市都市計画課は「合併した今こそ撤廃の好機」としており、まずは同区域解除を福岡県に申し出るための根拠となる市都市計画マスタープランを09年度中に策定する。同区域廃止後に、どのようなまちづくりを描いていくかが今後は問われることになる。

 市街化調整区域指定が地域活性化の妨げになっているのではないかという問題提起は特に2000年都市計画法改正の頃からなされるようになった印象があります(参照、都市計画中央審議会「今後の都市政策は、いかにあるべきか 」 第二次答申(2000.2.8)より)。現在の都市計画の重要な課題の一つと思われますが、他方で、計画的市街化を損なわないような配慮に加え、コンパクトシティ政策との関係も検討されるべきでしょう。記事の最後にもあるように、市としてのトータルなまちづくり構想を市民の議論によりしっかりと打ち立てることが望まれるでしょう。
 上の記事で気になったのは、
>「調整区域になれば、農地は非課税になるとのうわさが流れたからではないか」
>実際には、固定資産税の非課税措置はない
という記載です。
あまり自信はないのですが、市街化区域とされた場合の宅地並み課税の問題は、1971年の設定時点で、既に問題になっていたのではないでしょうか。
もちろん実際には、この問題はその後さまざまな曲折を経て現在の取り扱いに至り、現在でも、課税額が宅地並みなのは三大都市圏の特定市にある市街化区域農地に限られるわけですが、この時点においては、「市街化調整区域になれば非課税」はもちろんたんなる噂にしても、「市街化区域になれば税負担がはねあがる」という見込みは、十分に根拠があった可能性もあります。歴史的経緯に即した検証が望まれるところです。

「都市計画の司法統制」

日本都市計画学会「都市計画」272号5-10頁に「都市計画の司法統制―審査対象と時間軸の問題を中心に」と題する文章を執筆させていただきました。都市計画と時間軸の問題はかねてから気になっていたのですが、結局注に上げたような従来の分析にほとんど付け加えることができませんでした。他日を期したいと思います。都市計画制度に関する豊かな将来構想に満ちた同誌の他の論文と比べるとお恥ずかしい限りですが、ご容赦下さい。

(追記(4/28):お詫び)
上記拙稿ですが、私の校正ミスにより、最終段落(9頁最終段落「また、」以下)の注番号および対応する注記が全く狂っておりました。校正で大幅に加筆修正してしまったためです。読者および関係各位にお詫びし、上記部分の訂正版をウェブサイトに掲げさせていただきます。

(追記4/30)都市計画学会のサイトでも訂正版を掲載して下さいました。私のミスをカバーしていただき、申し訳ありません。

小型なんでもレコーダー<オモイデ>

のりを続けさせてください。上の本には、同じ北川幸比古氏の『こどもセールスマン1号』(初出1970年)も併録されています。こちらでは「人間テスト」を受けてこどもセールスマンになった小学生の星野星助君が、いろいろな新製品を売り歩きます。その中の一つがタイトルのものです。

これは、今までのビデオレコーダーとはまったくちがいます。
社長のせつめいによると、オモイデは手ちょうぐらいの大きさで、しゃべったりうたったりした声や、なにかしたり見たりしたことをなんでもぜんぶきろくします。
 ふつうのレコーダーだと、カセットテープがいっぱいになるととりかえるので、きろくがとぎれます。しかしオモイデは、テープをつかわず、でんぱで会社の大型きおくそうちにおくり、そこできおくさせておくので、どんなにながいきろくでもできます。
 じっさいオモイデには、スイッチさえついていませんでした。いつもでんぱをだし、きろくのしつづけです。
 きろくをとりだしたいときは、つかう人が会社にしんごうをおくると、コンピューターがちゅうもんどおりよりわけ、立体カラーテレビの画面と音にして、おくりかえしてよこします。
 「美しい思い出を」とちゅうもんすれば、いやなことははぶいて、たのしくまとめてくれるのです。
(略)
 おもったとおり、オモイデは、どかどかうれだしました。学校へもっていって、オモイデにぜんぶおぼえさせるべんきょうがはやり、こどもたちまで、じぶんようのオモイデをもつようになりました。
(大好きな先生がオモイデを使わないので)
 スパイみたいで、きらいなら、もってあるかなければいい。会社の大型きおくそうちから、だれかが、かってにきろくをとりだしてしまうのがしんぱいなら、ひみつにしたいときはオモイデをもっていないようにすればよい。星助くんは、そうかんがえて、川井先生にはなしました。

 『宇平君』『こどもセールスマン』両作品とも、いろいろな意味で時代を感じさせる作品ですが、「今の時代にふさわしい本」という評価に共感します(ただし、こちらこちらに同時代の批判もあります)。ただ、現在の目から見ると、後者で登場する新製品の方によりアクチュアリティがあるようにも思います。製品を開発するのが前者では善意の発明家であり、後者では資本主義的大企業であることとそれは無関係ではないのかもしれません。
 

とうめいとりょう<ナイパー>

 以下は全くの余談になります。先日、大昔に小学校の図書室で読んだ

宇平くんの大発明 (岩崎幼年文庫 19)

宇平くんの大発明 (岩崎幼年文庫 19)

という本を(題名をすっかり忘れていたので)苦労して近くの公共図書館で見つけました(初出は1968年)。小学生天才発明家の話なのですが、(立体ふくしゃ器<マルコピイ>の話を読み返したかったのです)、その中に出てくるのがタイトルの発明品です。
 宇平君の新発明の透明塗料、かけると物が透き通って見えなくなるわけですが、政府に没収されてしまいます。 

 「大臣!国民が、ミサイルやせんすいかんにばかり、おかねをつかうのはけしからんといって、さわいでいます」
 「よろしい」
 とうめいとりょうを、しゅーとかけると、ジェット機もミサイルも、せんすいかんも、まるで見えなくなりました。
 「はっはっは。うまいぞ、うまいぞ」
 「大臣!びんぼうな人がすんでいるぼろぼろの家がおおくて、みっともなくてこまっています。たちのきにはんたいしているんです。らい月は、外国から、えらい人が日本を見にくるのに....」
 「よろしい」
 とうめいとりょうを、しゅーっ!ぼろぼろの家は、たちまち見えなくなりました。
 ごみの山があれば、しゅーっ!きれいなあきちに見えます。
 「うん、これはいい」
 大臣は、すっかりきげんがよくなりました。

「行政過程の透視可能性」

 前エントリとの関連ですが、紙野健二「現代行政と透明性について」を読んでいて、故室井力先生

行政改革の法理 (法学選書)

行政改革の法理 (法学選書)

で、「行政過程の透視可能性」概念が用いられていることに気づきました。

行政過程の民主的統制のために、行政組織の民主的統制ともかかわりつつ今日とくに問題にすべきことは、行政過程の透視可能性、またはいわゆるガラス張り行政の確立いう視点である。従来の行政法学では、あれこれの行政施策が現実具体的に国民・住民の権利自由と接点をもつにいたるまでの「行政部内」における利益衡量や論議は全て抜きにして、行政の最終決定としての認可や許可・命令などをもっぱら取り扱ってきた。たとえば、行政裁量とのかかわりでみても、かりにある行政裁量権の承認が上述のような意味においてやむを得ないものであるとしても、その裁量権を行使する過程そのもののは、きわめて不透明であったり秘密であって、法律の枠内におけるいくつかの選択肢が可能である場合において、どのような理由からある特定の選択肢=決定を選んだのかということが明らかでないことが通例である。
 そこで、行政施策形成・決定過程および執行過程における国民または住民の参加と行政の公開が問題とされるにいたるのである。(9-10頁、初出1978年)

 なんども読んだはずの本なのに、すっかり忘れていました...
 この室井先生の「透視可能性」概念は、情報公開・複数選択肢からの選択理由の開示・国民住民参加などと結びつけられていることが特徴的です。
 2005年行政手続法改正によって、「透明性」概念が構造転換したのではないかということはしばしば指摘されています。

パブリック・コメントと参加権 (行政法研究双書)

パブリック・コメントと参加権 (行政法研究双書)

行政処分手続や行政指導手続との絡みでの「透明性」は、基本的には手続関係者である処分や行政指導の相手方に対する透明性が中心であったといえる。しかし、審査基準、処分基準、行政指導指針の関係でも透明性確保のためと言われると、透明性の中身は、直接の当事者を超えた関係者、第三者、さらに広く市民一般に対する透明性に変わってきたといえよう。このように透明性概念がより広い視角から捉えられるとすると、それと行政立法手続の目的は親和的になってくる。(51頁)

 紙野健二「行政立法手続の整備と透明性の展開

(2005年行政手続法の)とりわけ第2、第3章と比較しての第6章の手続構造からして、この行政立法手続を民主主義や参加の観念と結びつけることなく、93年法の段階での公正の確保と透明性の向上という目的の範囲内のものと理解することは、かえって奇妙でさえある。だとすれば、93年法の透明性の観念そのものが、05年法によって多数当事者的な、案等の公示から意見考慮の結果に至るまでの過程を通じた、かつ一方的なものではなく行政機関と意見提出者との一定のやりとりを想定したものへと、実質的な変更が加えられたと解することになろう。すなわち、行手法にいう透明性は、公開を基本とする本来的なものへと復帰したというべきであって、検討会が、93年法と05年法の両者を目的規定の文言を連続的にとらえ、とくに93年法の透明性と行政立法手続との実質的な齟齬に言及しなかったのも、かかる理解を前提にしてのものと思われる。(501頁)

 前エントリでも書いたように、「透視可能性」という表現を用いることは、
*観察者は誰か
*観察目的は何か
という問いをより強く意識させることになるでしょう。室井先生の上記の「透視可能性」概念には豊穣な内容が盛り込まれている一方で、その分別が十分になされているとは言えなかったように思います。まさにそれをやっていくことが後進の課題になるのだと思います。

透明人間:その後

昨日のエントリで触れた「透明人間」について、木佐茂男先生よりメールを頂きました。そのご趣旨は、

・「透明人間」論は、行政手続法制定以前から話題になっていて、某先生がこだわっておられた
・本来、「透明」ではなく、行政手続の「MRI透視」あるいは「PET透視」なのではないか

というものでした。前者の点について、実は他の同業者からも同じような指摘をいただきました。某先生にお会いするときにお伺いしてみようかと思います。

後者についてですが、

基本的に理系音痴の人間なのですが、なぜか「日仏先端科学シンポジウム」に出席させていただいたことがあります。分子イメージングに関する報告を拝聴して、今までそもそも顕微鏡の原理すら考えたことがなかったことに気づきました。光学的な拡大以外の原理によって「見えないものを見よう」とする以上、「全く同じ像」が伝達されているかどうかを問うことは難しくなるでしょう。もはや即自的な「見る」ことではなく、観察者の観察目的との相関を考えざるを得ないのではないでしょうか。(さっぱりわかりませんが、こんなニュースもあるみたいですね)この意味で、PETによって得られる画像が形態画像ではなく、機能画像だというのも、考えてみれば面白いと思います。

透明=単に遮蔽物がないか(あるいは透明ガラス)ではなく、何らかの観察(診断)目的に規定された「透視」可能性が問題なのだ、という意味で、木佐先生の指摘は卓見だと思った次第です。付け加えれば、ユーザーのための「画像化」のありようも問題になるでしょう。

ちなみに、医用画像処理においては、観察対象である人体に侵襲性がないことが、もっとも重要な考慮要素でしょうが、行政活動に対する「透視」は、観察が対象に影響を与えることを当然に予定している点で、大きく異なっているような気がします....

平成19年度重要判例解説

 ジュリスト臨時増刊(1354号)平成19年度重要判例解説 38-39頁に小田急訴訟上告審本案判決(最判2006.11.2)の評釈を執筆させていただきました。例によっての原稿遅れに加え、2頁に収めるために何度もやりとりが必要で、関係各位にはご迷惑をかけました。
 本文中に、赤井伸郎「公的部門におけるソフトな予算制約問題」(伊藤秀史/小佐野広編『インセンティブ設計の経済学―契約理論の応用分析』(勁草書房,2003)338頁以下)に言及していますが、同文献については、CDAMS公共空間研究会の折に、藤谷武史先生(北海道大学)よりご教示いただいたものですが、 紙数の都合上言及できませんでした(ただし、正しく利用できているかどうかはわかりません)。
 また、これも文中で引用している
国土交通省公共事業評価の費用便益分析に関する技術指針」はこちらから参照できます。