「行政過程の透視可能性」

 前エントリとの関連ですが、紙野健二「現代行政と透明性について」を読んでいて、故室井力先生

行政改革の法理 (法学選書)

行政改革の法理 (法学選書)

で、「行政過程の透視可能性」概念が用いられていることに気づきました。

行政過程の民主的統制のために、行政組織の民主的統制ともかかわりつつ今日とくに問題にすべきことは、行政過程の透視可能性、またはいわゆるガラス張り行政の確立いう視点である。従来の行政法学では、あれこれの行政施策が現実具体的に国民・住民の権利自由と接点をもつにいたるまでの「行政部内」における利益衡量や論議は全て抜きにして、行政の最終決定としての認可や許可・命令などをもっぱら取り扱ってきた。たとえば、行政裁量とのかかわりでみても、かりにある行政裁量権の承認が上述のような意味においてやむを得ないものであるとしても、その裁量権を行使する過程そのもののは、きわめて不透明であったり秘密であって、法律の枠内におけるいくつかの選択肢が可能である場合において、どのような理由からある特定の選択肢=決定を選んだのかということが明らかでないことが通例である。
 そこで、行政施策形成・決定過程および執行過程における国民または住民の参加と行政の公開が問題とされるにいたるのである。(9-10頁、初出1978年)

 なんども読んだはずの本なのに、すっかり忘れていました...
 この室井先生の「透視可能性」概念は、情報公開・複数選択肢からの選択理由の開示・国民住民参加などと結びつけられていることが特徴的です。
 2005年行政手続法改正によって、「透明性」概念が構造転換したのではないかということはしばしば指摘されています。

パブリック・コメントと参加権 (行政法研究双書)

パブリック・コメントと参加権 (行政法研究双書)

行政処分手続や行政指導手続との絡みでの「透明性」は、基本的には手続関係者である処分や行政指導の相手方に対する透明性が中心であったといえる。しかし、審査基準、処分基準、行政指導指針の関係でも透明性確保のためと言われると、透明性の中身は、直接の当事者を超えた関係者、第三者、さらに広く市民一般に対する透明性に変わってきたといえよう。このように透明性概念がより広い視角から捉えられるとすると、それと行政立法手続の目的は親和的になってくる。(51頁)

 紙野健二「行政立法手続の整備と透明性の展開

(2005年行政手続法の)とりわけ第2、第3章と比較しての第6章の手続構造からして、この行政立法手続を民主主義や参加の観念と結びつけることなく、93年法の段階での公正の確保と透明性の向上という目的の範囲内のものと理解することは、かえって奇妙でさえある。だとすれば、93年法の透明性の観念そのものが、05年法によって多数当事者的な、案等の公示から意見考慮の結果に至るまでの過程を通じた、かつ一方的なものではなく行政機関と意見提出者との一定のやりとりを想定したものへと、実質的な変更が加えられたと解することになろう。すなわち、行手法にいう透明性は、公開を基本とする本来的なものへと復帰したというべきであって、検討会が、93年法と05年法の両者を目的規定の文言を連続的にとらえ、とくに93年法の透明性と行政立法手続との実質的な齟齬に言及しなかったのも、かかる理解を前提にしてのものと思われる。(501頁)

 前エントリでも書いたように、「透視可能性」という表現を用いることは、
*観察者は誰か
*観察目的は何か
という問いをより強く意識させることになるでしょう。室井先生の上記の「透視可能性」概念には豊穣な内容が盛り込まれている一方で、その分別が十分になされているとは言えなかったように思います。まさにそれをやっていくことが後進の課題になるのだと思います。