透明人間

執筆中(すみません>関係各位)の某原稿で、行政手続法の「透明性」概念について検討しているのですが、有斐閣アルマ『はじめての行政法(2007年−行政法初学者には藤田・入門と並んで最適書の一つだと思います)89頁 Column7に次のような記述があります。

「本書の編集会議の雑談で、著者の1人(下井康史先生)が、「『透明性』というけれど、もし本当に透明だと、透き通って見えるのではなく、逆に『透明人間』のように目には見えず(invisible),行政過程は閉ざされたブラックボックスになってしまうのではないか」、と発言された。当初は大爆笑した執筆者一同であったが、しばらくして『笑えない冗談』だ、ということに気がついた」

『透明人間』といえば、H.G.ウェルズのそれを誰でも連想するでしょうが、上でも示唆されているように、同書の原題は"The Invisible Man"です。
  (定冠詞抜きですが)同じタイトルを持つ本として、ラルフ・エリスン『見えない人間』があります。そして、短編集中の一編(こちらは定冠詞付)として、G.K.チェスタトン「見えない男」(『ブラウン神父の童心』所収)(www.online-literature.comより)があります。エリスンの本のタイトルの含意は、ウェルズではなくむしろチェスタトンに近いような気もします。
  「見えない人間(男)」と訳されるときの重点は、当該対象自体の不可視性にあるわけですが、「透明人間」と訳されるときは、不可視性を実現するためのメカニズムに興味の対象があるということになるでしょう(それが本質的に不可能であることはネタ的によく指摘されますが(wikipediaも参照))。

  
上の『はじめての行政法』でも紹介されているように、行政手続法1条は、「行政運営における....透明性」を「
行政上の意思決定について、その内容及び過程が国民にとって明らかであること」と定義しています。しつこくこだわれば、ここでの「透明性」は、「見られるべき」何らかの対象があらかじめ存在することを前提とした上で、それが「可視的」であるためには遮蔽物がないか、あってもそれが透明な(transparent)ガラスであるといったイメージなのだと思います。

 ガラス張りの知事室といった文字通りの場合を別にすれば、もちろんこれは比喩でしかありません。実際には、なんらかのメカニズムによって、「見られるべきもの」の「可視性」を実現すること(ウェルズの透明人間とは逆に)こそが「透明性」という標語によってめざされていることなのでしょう。

(目的規定で「透明性」はうたわれていませんが)情報公開法の場合、「既に存在する行政文書」への遮蔽物をなくすという意味で、上の「透明性」イメージに比較的近いものがあります(もちろん実際には、単に遮蔽物をなくすだけでなく開示に向けての行政機関の作業も必要ですが)。しかし、行政手続法の場合、理由提示・基準設定・聴聞及び弁明機会の付与・行政指導の文書化・(2005年改正による)パブリックコメント、それぞれ、何を「見られるべきもの」ととらえているのか、改めて考えてみたいと思っています。

(追記:4/21)検索して、井上ひさし編『「ブラウン神父」ブック』(春秋社、1986)に、柳瀬尚紀氏による"The Invisible Man"の翻訳が掲載されているのに気づきました。こちらでは「透明人間」と訳されています。本棚の奥から苦労して引っ張り出して目を通しましたが、自分が翻訳家になれなかったわけが改めてよくわかりました.....なお、本文も一部修正しました("transparent"を補充)