追体験を通した理解

「.......浅草の事件は殺人でしたが、なぜ万引きや無賃乗車を繰り返す子がいるのかという子がいるのかという問いの延長線上で考えてみる必要があるのではないかと思います。
 延長線上でとは、それらの行為がその人にとってもつ意味を、社会的な規範をじかに当てはめるのではなく、その人の体験のあり方に沿って理解しようとすることが必要ではないかということです。理解といっても、『これが自閉症の特徴です』で済ますのは理解したことにはなりません。ラベル貼りです。発達に遅れを強いられたとき、まわりの世界はどう体験されるのか。そちら側の体験世界に身を置いてみると(ことのよしあしは別としても)なるほどなあとその行為の意味や無理のなさがわかることが少なくありません。そういう追体験を通した理解が必要です。
 そのために必要なのは、精神障害発達障害の体験世界を私たちの体験世界との連続線上で私たちがそれを追体験しようとする発想です。かれらは私たちとは切れた異質な存在ではありません。障害ゆえの差異(というかその差異ゆえに『障害』と呼ばれはするのですが)は相対的なものです。相対差に過ぎぬものが、現実の中では深刻なハンディとならざるを得ないとしたら、その背景にあるのはなにか。それを考えてみたいわけですね。裁判所としては、『そんなことは我々の仕事ではない』ということになるのかもしれませんが、有罪か無罪か、どんな量刑が妥当かという議論とは別のところで、本当は何が起きたのかを深く理解しようとする努力が求められると思います。」(「座談会:『レッサーパンダ帽男』事件は何を問い続けているか」世界2006年5月号230-238頁(234-235頁、滝川一廣発言)」

「理解」することは必ずしも「許す」ことではない、量刑と直結するものではない、「ことのよしあしとは別」であることを前提とした上で(「理解」できるが、ひょっとしたらそれゆえに、当該行動を抑止するために厳しく対処せざるを得ないということも、時にはあるかもしれません)、「追体験を通した理解」を試みようとすることこそが、求められているのではないでしょうか。

「障害」者の犯罪だけの話ではないように思います。他者の言動を、「気持ち悪い」と切り捨ててしまい「理解」を拒む風潮が強まっているような気がします。

あくまで自戒としてですが、
・異なった歴史・文化・信条を持つ者には、それぞれ世界が違って見えているかもしれないこと
・しかしその差異は相対的であり、追体験による理解の可能性に開かれていること

を絶えず頭においておきたいと思います。